創刊10周年記念シンポジウム 内山節氏講演(再録) ~“里山から考える”協働のチカラ、つながる力~ 

本記事は、2016年11月15日に新宿区立新宿文化センターで開催されたシンポジウム「“協働のチカラ、つながる力”」における内山節氏の基調講演「“里山から考える” 協働のチカラ、つながる力」を誌上再録したものです。本サイトでの公開にあたり、編集部にて一部、内容を損なわない程度の加筆・修正を行いました。編集部の許諾なしに、Webサイト等に転載することはご遠慮ください。(パルシステム連合会・地域活動支援課『のんびる』編集部)

 
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▲内山節氏。哲学者。1950年東京都生まれ。東京と群馬県上野村を行き来しながら生活。自然や農とともにある日本人の暮らしについて提言を続ける。

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“里山から考える” 協働のチカラ、つながる力」

村の高齢化率と「Iターン」

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最初に講演された色平哲郎さんが住む佐久(長野県)から、峠をひとつ越えると、僕の住む上野村(群馬県)です。色平さんの講演のあとでやりにくいな(笑)。僕の講演は、色平さんのように即興のひとり芝居もないので(編集部注/色平哲郎氏講演「いのちの現場から考える」は動画で配信中です。詳しくはこちら。)。

 さきほど、色平さんが高齢者問題についてお話されましたが、実は高齢者問題というのは、田舎度が高ければ高いほど、実はもう解決していると言ってもいい。というのは、早くから高齢化していますので、地域社会に耐性ができているんですね。

 上野村でも一時期、43%くらいの高齢者率があったんですが、「村役場が何をするのか」ということもありますし、住民の側も「4割くらいは高齢者がいて当たり前」という、そういう社会ができています。ですから、「みんなの力」という意味でも、それからあと「村役場は何をしたらいいのか」という点でも、早めに耐性ができあがっているといえます。

 現在うちの村ですと高齢化率38%くらいで、若干下がってきています。これは地域によってずいぶん違いますが、うちの村の高齢化率が下がっている理由は、Iターン者が多いということに尽きます。

 現在うちの村で、人口は1300人ぐらいなんですが、だいたい人口はこの間、横ばいになっています。横ばいになっているのもIターン者です。今は、250人強くらいかな、村に来た人がいます。

 ただ、村の中では「Iターン」という言葉はあまり使わないんです。あれ変な言葉でして、村の場合でもお嫁さんは、村外からきているという人がたくさんいるわけです。でも、「Iターン」とは言わない。

 それから、もう少し高齢者になりますと、養子さんが結構多くて……。娘さんが跡を取って、養子をもらうという形ですけど。そうすると、養子さんも村外から来ていることもありますが、結構、村内からという人も多いですね。

 ややこしいのは、夫はIターン者という場合です。Iターンで来た人が、村の女の人と結婚する。ところが、Iターンで来た女の人が村の男の人と結婚したら、なんとなく「嫁」ということになる。その辺の基準がおかしいですね。だから外で説明するときは、「Iターンで2割くらいいますよ」という話をしています。「Iターン」ではなくて。「村で暮らしている人、暮らしていない人」でよいのではと思いますね。今はどんな地域でも、新しい人が入ってきていますから。

 まあ、なんとなく、僕の村はやっていけるのかな。村に1300人いて、毎年生まれる新生児はだいたいうちの村で10人くらいです。7~8人の年もありますが、逆に12~3人くらいの年もありますので、だいたい平均して10人くらいです。

 このくらいの人口で毎年10名なら、東京と同じくらいの出生率なんですね。他の同じくらいの村の規模ですと、年間1人か2人ぐらいしか生まれていない地域が結構ありますが、そのへんもちゃんとした地域を作っていこうとすればなんとかなるよ、というわけですね。

 高齢化率の問題でも、それから出生率の問題でも、実は「語られているほど深刻ではないな」というのが、うちの村だといえます。全国的に同じというわけではないですが……。

みんなが喜ぶ「おもてなしゲーム」

 村の人間は、「おもてなし」が大好きなんですね。おもてなしの場合には、お茶を出すとか、そういうおもてなしがありますが、「都会の人たちをもてなすときには、こういう話をしてあげると都会の人が喜ぶという話があります。

 その際たるものが「おもてなしゲーム」です。地元に住んでいる人間は、村の何に価値があるのか、わからないのがあたりまえです。ですから、都会の人がきて、「こんないいものが村にあるじゃない」と教えてもらうと、村の人は初めてその価値に気が付き、喜ぶ。そうすると、都会の人も大喜びする。おもてなしゲーム。

 それから、取材なんかで都会から来られた方には、「過疎と高齢化で大変なことになっている」とこちらは言います。これも、おもてなしなんです。「うちの村はなんとかなりますよ」と言っちゃうと、せっかく来てくれた人が、がっかりして帰っていくことになりますので。というのが、今の僕の村の状況であります。

 僕自身がもう5年ほど経ちますと、村で生活を始めて50年くらいになります。半世紀ぐらいです。上野村にふらっと出かけて、なんとなく「この村いいな」っていうんで、しょっちゅう長期滞在していました。そうしたら、村の人とも当然知り合いが増えていきます。

 実は僕は、生まれは東京なんですが、“ふるさと”というのがない人間です。父は名古屋の出身ですが、名古屋はちょっと“ふるさと”という感じではない。ですから、小学生くらいのときによく夏休みなんかが終わりますと、「田舎に帰った」という子どもたちがクラスにいて、すごくうらやましかったですね。

 農村に遊びに行くこと自体、僕の子どものころは簡単にできなかった時代でした。お金と時間があれば、観光旅行で行くことは可能ですが、観光旅行で行った農村とクラスの子どもたちが言う「田舎」は、ぜんぜんニュアンスが違います。

 田舎というのは、私の考える“ふるさと”です。おじいさん、おばあさんがいたり、お墓があったり、そこの家がやっている農地があったり、そういう世界なんで、なんとなく「うらやましいな」というのがありました。で、いつか僕も「田舎がほしいな」というそんな感じなんです。そうしたら「上野村、いいな」となったわけです。

村で感じる絶対的な安心感

 実は、これを言うと色平さんから「むっ」と思われるかもしれませんが、上野村は当時、交通がものすごく不便でした。東京から車で行くしかないみたいな話で、ちょっと道が混むともう8時間から10時間かかってしまう。今は高速道路を使うと、夜だと2時間半くらいで行けるようになりましたが。

 ですから僕は、西武線の秩父駅に駐車場を借りて、そこに車を置いて、上野村を行き来しています。秩父まで電車で行くと、そこから車で1時間半くらいで上野村です。そんな感じの山村で、車でしか行けません。友達で「行きたい」という人がいた場合、さっき言ったように車でしか来れないので、もうちょっと、交通の便が良いところがいいかな、という感じはしています。

 色平先生のいらっしゃる佐久との話ですが、僕はもともと魚釣りで村に行っていたんです。峠を越えると千曲川水系、そうすると南相木村、北相木村があり、そのへんにも釣りに行きます。

 あのへんには、JR小海線が通っていますし、そこからのバスもわりとあります。「長野県側もいいかな」と交通の便では考えていましたし、昔は両方行ったり、見てたりしていたんです。で、「やっぱり上野村がいいかな」と。

 その最大の理由というのは、当時、上野村の大人の会話にあります。例えば「あそこの息子さんは今、東京の大学にいっている」という会話があります。「東京の大学って、どこに行ってるの?」と訊くと、みなさん知らない。「東京の大学に行っている」となる。「東京の大学」という言葉で、全部一緒になるわけです。

 それが、峠を越えて長野県側にはいりますと「あそこの息子さんは今、○○大学の○○学部に行っている」という話になる。そこではちゃんと、偏差値が意識されている。やっぱり東京の大学がひとまとめになるほうが、僕としてはいいなと。それがありまして、やっぱり上野村だと。(会場大笑)少々不便だけど、そんな感じで半世紀、東京と行き来しながら、上野村で暮らしています。

 上野村に行って何が一番いいかというと、やっぱりあの「絶対的な安心感」につきます。まず村中、自然だらけなのがいい。毎年思うんですが、春先になって山菜のでる季節が訪れますよね。そうすると、すごい安心感なんです。「これでもう何も困ることはない」みたいな。なんとなくそういう気分になるといいますか……。縄文時代の人たちも、そうだったのではないかと思うのですけれども。

 いまの暮らしでは、山菜ぐらい出てきたんじゃぜんぜん安心できないはずですし、実際電気も使っているし、もちろん車も使っています。でも、何となく春になると、「これで大丈夫」みたいな気分になってくる。

 そういう自然が与えてくれる安心感のある世界。それもあるし、逆にいうと僕は今は、逆にちょっと不安がある時なんです。この間、忙しかったり、いろいろしたものだから、冬を前にして、うちの家の薪がいっぱいない。多分、今年の冬ぐらいは問題ないくらいありますが、薪ってだいたい3年分くらい持っているものなんです。

 それが「1年分くらいしかない」だと、冬を越せないような気分になってくる。これもまたふしぎなもので、今の時代ですから、「薪なんてなくったって大丈夫」という話なんですが、しかし気分的にはそんな感じになります。

 ないとなると、買うという手もあって、上野村単独の森林組合が製材屋さんをやっています。そこの製材屋さんに電話すれば、森林組合で製材した木の端っこがいっぱい出てくる。軽トラ1台分で、1万円くらいで持ってきてくれます。電話をすれば簡単なんです。

 でも、それが積んであると、なんとなくちょっと落ち着きが悪い。やっぱり割った薪も持っていないといけない。燃料確保の意味合いとは違って、なんとなくその、村の暮らしみたいのがあるわけです。

 逆にいうと、冬を前にして薪が積み上がっていると、「これで今年の冬は大丈夫だ」みたいな、そういう安心感といいますか。

村人同士の結び合いも

 当然、薪だけの話ではなくて、村ですから隣近所も含めて、きわめて人間同士の安心感のある世界があります。

 僕のうちですと、もしコンビニに行くとなると、車で往復1時間半くらいかかるんです。村の中にはもちろんありません。でも、1時間半かけて、コンビニに行く人はいません。たまたま町へ行ったついでに寄るということはありますけれども。

 つまり、コンビニはない。村の人たちは、村の家がみんなコンビニエンスストアのように思っていて、「だから、この村にはいらない」と。まさにその通りで、仮にしょうゆがないだけではなくて、「夕飯を作るのが困難だ」という話があっても、隣にいけば全部解決するという、そういう感じです。

 どこのうちでもだいたい、お店が遠いということになると、食べ物のストックがあります。「ちょっとしょうゆが足りないんだけど」なんて行けばですね、だいたい帰りには一升ビン1本を持って帰ってくるという形になってしまいます。そういう生活なのです。

 僕自身は実は、料理を作るのがけっこう好きな人間なので、そういう点ではひとりでも、ぜんぜん苦労することはないです。ただ、隣の家に僕がひとりで「しょうゆを少し分けてください」と行くと、「男の人がひとりで、夕飯どうするんだろ」という感じになる。そうすると、なんとなく近所の人が出てきて、「夕飯どうするんだ」という話になりますよね。「よかったら家で食べてくか」みたいな、そういう感じです。まさに「村中がコンビニエンスストア」みたいな、そういう社会っていうんですか……。

 そういう社会が持っている安心感も、村にはものすごくあったりします。結局、あの村の中には、いろいろな結び合いがあって、その中で自然との結び合いもあるし、村人同士の結び合いもあるわけです。

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自然の意見、死者の意見

 とても重要なのは、日本の社会と欧米の社会で比較していきますと、社会の歴史が違いますから、同じような面もあれば、違うような面もあります。あたりまえの話なんですが、ただひとつだけ、社会観の根本的な違いというものがあります。欧米の社会というのは、社会の構成メンバーが生きている人間だけなんです。ですから、生きている人間たちによって、自治をすればよいと。

 自治の原理は実に簡単で、生きている人間たちが集まって、よく議論をして、自分たちでルールを作って、実行に移せば自治になります。もちろん、みんなが集まって自分たちのルールを決めるとなると、簡単にはいきません。でも、現実的には簡単なんですね。ところが日本の社会で非常にややこしいのは、社会の構成メンバーはまず「自然と人間の社会」である。だから、社会の中に自然が入ってくる。

 さらに人間の部分は、生きている人間だけではありません。死者を含めて、この社会の構成メンバーであると。だから、死んだ人たちが消えてしまっているわけではなくて、その人たちもわれわれの仲間、それがもともとの日本の伝統的な社会観なんです。そうすると自治を決めてもややこしいわけです。

 自治の決定は、生きている人間でやるしかない。にもかかわらず、自然の意見も入れないといけないし、死者の意見も入れないといけない。死者というのはこの場合、その地域を作ってきた先輩たちと考えていいです。その先輩たちの意見を、ちゃんと入れていかなければいけない。

 ところが、いうまでもなく会議を開いても、自然と死者たちは発言をしてくれないわけで、そうすると生きている人間がいわば、自然の代理人になる。死者の代理人になる。そういうことをしないといけない。言葉で言うのは簡単ですが、それを実際にはどうするのか。

村に根づく協同の世界

 自然や死者の意見を、自分が代弁することは、そう簡単にはいきません。ここで「協同」というのが入ってくるんです。重要なのは、たとえばまつりであったり、年中行事であったり、みんなで助け合いながら生きている日々の雰囲気といいますか。そういうなかで、もともとの村というのは、1年間の中にまつりや年中行事があります。少なくとも毎月あったし、シーズンによっては月に2回、3回あるときがある。

 それも、だいたいうまくできていて、農業で忙しい時期は月に1回くらいやっていて、冬でひまになってくると3回くらいある。そういう感じなんですが、そういうものが、繰り返し繰り返しあります。その繰り返し繰り返しのなかで、絶えず自然の神様を祭ったり、うちの村だと山の神を祭るとか、水の神を祭るとか、そういうことを行ったりします。

 それから、「お盆だ」「お彼岸だ」とか言っては、先輩たちとつながり直す。それをひとりでやるのではなくて、協同でやる。だから村のお墓参りは、個々でやるにしても、「今日はお墓参りの日だ」みたいな感じの、協同的世界があるわけです。

 そういうことを協同でやりながら、自分たちが絶えず、死者たちとの関係を結び直すというか、関係を維持し直す。あるいは、自然との関係がどうなっているかということを、もう一度結び直し、維持し直す。これは個々の人の作業ではなくて、村という共同体があってこそなんです。

 例えば山の神信仰なんかでも、山の神様に手を合わせるという場面では、個々の人がやっています。それとは別に、山の神の大祭という日があり、うちの村だと1月12日だと思いますが、その時には何人かで行って、山の神様にお酒をつけたりします。

 それ以外の日はもうほんとに個人で、山に入る時にちょっと手を合わせたりとか、そういう感じです。それは個々の人の作業ではなくて、そういう形で村を作っている、村の共同世界が背後にあるわけです。背後にそれがあってこそ、その場面場面は個々の人のものということになる。だからお墓参りも同じようなものです。村をいつも維持していくための「村の世界」があって、その中で「じゃあうちは明日行ってこようか」とか、そういう話が出てくるんです。

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近代国家と王政復古

 うちの村は今でもそうなんですが、「ご先祖さま」という言葉の意味は、実は歴史的に変わってきているんですよね。元々日本を作っている「ご先祖さま」というのは、自分たちの暮らしや社会を作っている先輩たち、「〇〇の家系のご先祖さま」ではないんです。家系のご先祖さまも、その一員ではあるけれども、それだけではないわけです。「地域のご先祖さま」とか、もともとのご先祖さまが加わるようになった。

 それが江戸時代に入り、寺に檀家制度ができて、寺が過去帳を作り、そのことによって初めて「うちのご先祖さま」みたいなものが発生しはじめる。だけどやはり、地域のご先祖さまが圧倒的には優勢です。ただそこにちょっと「うち」というものが加わり、「うちのご先祖」という言葉に一本化されるようになった。それは明治以降のことで、日本の近代制度がそれを作っています。

 どうしてこのような制度を作ってしまったのかというと、明治になると日本は、天皇制の国家を作った。そうすると、「なぜ天皇が日本の王であっていいのか」となる。これが実は、説明しにくい問題なわけです。

 今の天皇陛下が「生前退位させてくれ」と言えば、国民感情的にいうと、「まあもう年寄だし、大変でしょうから、少し楽にさせてあげたら」という話になっていると思います。けれども制度的には結構、大問題を提起しているんですね。なぜかというと、「天皇制はあり得るのか」という問題でもある。

 というのは、明治になって日本では「王政復古」という言葉を使っています。「王政復古」というのは、どこに復古しようとしたのかというと、実は神代に復古しようとしているんです。

 つまり、神武天皇とかの時代、歴史学上は存在しなかった「天皇の時代」と言っていいです。天皇が神として、国を統治する時代です。あの時代に回帰する。それを「王政復古」という。

 ところが、片方でそれをやっていながら、片方で明治政府は何をやったかというと、近代国家を作ろうとしている。ですから、どうみても腸ねん転を起こしているわけです。

 近代国家でいくなら、ヨーロッパのような、ある意味で「近代的王政」にするしかない。ところが日本の場合には、日本のアイデンティティを再確立しようとしたものだから、なんと「神代の天皇制」に戻すという宣言をやって、しかも現実には近代国家とした。つまり制度的には、現実的にうまく調整がつかない。

 結局、明治から時間が少し経ってくると、制度上は天皇が大権をもっているという形をとりながら、実質的には象徴天皇制に近づいていく。つまり実権のない天皇制みたいなものに、戦前もなったわけです。でも実際には、ちょっと上にのせられた、お飾りのような天皇制みたいな形になっていく。

 戦後になると結局、そこをもう一度整理するような形になって、象徴天皇制になりました。では、象徴天皇制の前の「象徴」は、何を象徴するのか。国家を象徴するのか、国民を象徴するのか、問われているわけです。その問題は一応、「戦後の天皇制は“国民の象徴”とする」という形に落ち着きました。

「象徴天皇制」にひそむ矛盾

 ところが、天皇に「国民の象徴」はあり得るのか。つまり、国民の象徴は、全国民を代表する象徴です。しかも、自分(天皇)が一身にそれを具現化する。すると当然ながら、国民というのはいろいろな意見を持っているわけで、それを全て自分(天皇)が象徴するというのは、果たして可能なのか。

 ここが問題なわけで、もしそれをやるとするならば、天皇は一切発言禁止です。定められている国会の開設とか、総理大臣の任命とかを、行事的にやるだけであって、一切発言したり、行動してはいけないということになるわけです。なぜならば、すべての国民を象徴するような行為はありえないからです。

 天皇自身が実際にやっていることが悪いとか、いいとかではないんですが、被災者が出ればそこへお見舞いに行き、話を聞きに行く。国民の気持ちを代弁する。これが果たして国民全員が願っていることなのか。ということになると、ひとりでもそれに不快感を持つ人がいれば、「象徴の声」ということではまずいということになってしまう。一切動いてはいけない人ということになってしまう。

 そこのところを、「国民の気持ちを代弁する」と天皇は動いてきたわけですから、実はこのこと自身が大変な矛盾です。つまり、象徴天皇制というのは、実はありえないということであるわけです。

 象徴天皇制であれば、天皇は意思を表明してはいけません。感情的に「くたびれました」とか、「そろそろ年ですから」と意思を表明するのも、本来矛盾している。その前に象徴天皇制は、ありえないという問題がある。

 むしろ「契約された国王」ということにでもすればいいのですが、日本の場合、明治時代からそれを超越した存在として国民統合がはかられ、今に続いている。そこが整理できていないんです。そのため国民感情的には、「陛下がああいう風に言っているのだから、そろそろ楽にさせてあげたらいいじゃないか」となる。

 天皇制を研究している人になってみると、考え方としては、別に明治に戻ると言っているわけではないですし、リベラル系の人たちも含めて、ちょっと頭を抱えているといいますか。生前退位を認めていくことは、象徴天皇制があり得なかったことを宣言することになりますから。

 ですから、明治って、いろいろな点で混乱をしたんですね。明治時代の初め、外務省に星亨という人がいました。英語もひじょうに達者な人で、外務省のいろいろな翻訳原語を作りました。その星亨が、イギリスの国王を「国王」と訳したわけです。つまり「キング」を「国王」にした。

 それに対して当時の政府から批判が出て、「なぜイギリスも天皇にしないのだ」と。星の見解は「日本の天皇とイギリスの国王は違う」と。つまり、日本の天皇は、永遠の超越した存在。イギリスは単に政治的実力者で、その後は新しい契約に基づいた国王になる。そういう王様と日本の天皇と一緒するのはまずい。そう言って、星は抵抗するんですが、結果的に当時の政府の方針に合わなくて、星は罷免され、外務省から追放されるという事件がありました。

 それから何年か経ち、「なるほど、星くんの言った通りらしい」ということで外務省に引き戻され、それから高官になった。そんな事件があったんです。

 明治というのは、近代国家を作ろうとしていた。その狭間のなかで、天皇の意思というのは実は、極めて不安定でした。この問題が今また、「生前退位」という形で出てきたということなんです。

村じゅうのご先祖さま

 明治時代はさっき言ったように「天皇制国家」を作ろうとした。そうすると「天皇が日本の軸でいい」という根拠は、どこにあるかという問題が出てくるわけです。結局それは、本家と分家の関係の説明になるわけですね。

 あの当時の日本人といわれた人は、勝手に作った日本人ではありますが、「日本人というのはみな天皇家の分家である」と。われわれもまた「天照大神の子孫だ」と。天皇家からどこかで別れてしまい、それが日本人という世界を作っている。

 この論法は、江戸期の儒学者が作った論法ですが、それを採用するような形となり、そのために祖先は「源氏だ」「平氏だ」という人が日本はひじょうに多い。もし源氏だということになると、清和源氏、清和天皇のところから分かれていった私は、「その子孫です」という話になるわけです。あるいは「桓武平家、桓武天皇から離れていった分家です」となる。その論法を使うことになります。

 今日のこの会場には、在日系の方もいらっしゃるかもしれませんけど、本家が軸になるという人とそうではない人がいると思います。それは「全員が天皇家の分家である」ということになって、あくまで本家が軸となる。本家直系が天皇家。そうすると各家々に、分家である家系図が必要となっていきます。日本の場合、それを早くからやっていたのが武士、特に上級の武士たちがやっていました。

 なぜそんなことをやったかというと、自分が殿様であったり、将軍であるという根拠がなかったからです。簡単に言えば、武力で権力をふんだくっただけ。だけどそれでは、実権者としては都合が悪くて、「私がなるべくしてなった」という根拠がほしいわけです。

 その根拠というのは結局、「私は天皇家からの分家である」ということです。ですから日本の将軍家は、源氏と平氏からなるし、実権者としてそのために苦労もしています。徳川さんなんかでも、群馬にもともと徳川さんがいたんですけど、それは没落しているひじょうに貧乏ザムライの徳川さんです。そこに大金を払って、徳川性を買って、源氏の系列という形にしたわけです。

 それほど苦労しているんです。それしか、「自分たちが正統である」という根拠がなかったということです。それは、一部の武士にすぎなかった話でもあります。

 それが明治時代になると、天皇制をひくということで、全ての人にそうした根拠を強制したのです。にわかに「うちのご先祖さま」という話になっていった。そのことで、僕の母から、こんな話を聞いたことがあります。

 うちの母は移動(引っ越し)の多かった人間らしく、あるとき、愛知県豊橋市の辺りに住んでいたそうです。豊橋には、豊川稲荷があって、お祭りが盛大だったそうで、子どもの時にそこへ行くのが楽しみだったそうです。

 お祭りに行くと、夜店が並んでいて、子どもにとっての楽しみだった。その夜店の中で、ともかく数が多かったのが、家系図売りだったそうです。そこにほとんど、系図が書いてあるといいますか……。

 しかも料金によっては、どこから来たかというのが変わるらしくて、なかなか立派な家系もあって、家系によって料金が違うんです。そこで夜店の家系図売りが、「おじいさんの名前はわかりますか。曾おじいさんの名前わかりますか」というんで、それを聞いて、三代くらい書き込んでくれる。そんな家系図を買って帰るわけです。

 その程度の家系図ですが、それがとてもよく売れていたというのを、母は覚えていた。つまり、「うちもどこかで天皇家から分かれた分家である」という形を作っていたわけです。そういうことを経ながら、ご先祖さまが「うちのご先祖さま」に変わっていったということなんです。

 柳田國男という有名な民俗学者がいますが、柳田國男も『先祖の話』という本の中で、こんなことを書いています。「先祖が何とかばあさんとか、何とかじいさんとか、ご先祖さまが個人名をつけて語るようになったのは、比較的最近のことだ。だから、もともとのご先祖さまは、“わたしたちの地域を作ってくれたご先祖さま”“地域社会を作ってくれたご先祖さま”だ」と。

 うちの村では、お盆の時、迎え火は個々の家でやり、送り火は「村じゅうのご先祖さま」として、みんなして送ります。一か所に集まって、山に火あげをする。京都の五山の送り火みたいなものです。みんなで、村のご先祖さまを自然の世界にもう一度送るといいますか、そうしてやっています。

先人が築いた暮らしの基盤

 「迎え火」「送り火」のようなものも含めて、村には協同の社会があります。協同の社会が土台にあってこそ、個々のこともある。というのが「村という社会」なんです。

 ですから、村にいるとなんとなく、いろいろな先輩たちがいて、それでいまの僕がいる。「ご先祖さま」というふうにいうと、上野村の僕の家には、ご先祖さまはいないということになるわけです。

 ある時、村でちょっとボロい家と畑を譲ってもらって、そこで住むようになりました。そうすると畑に行っても、まあ簡単に言えば、種をまいておけば、少しは作物ができるわけですね。今はそれができなくなっている。というのは、今は動物がすごいんです。芽が出てくれば、動物が集まってくる、みたいになる。

 つねに村に住んでいないと、農業は難しい。そんな状況なんです。高圧電流を畑の柵にやったぐらいではだめ。ちゃんと住んでないとだめ。いつも人が見回っている雰囲気があると、動物も寄り付かず、何とかなるんです。村の人も「なんとか農業はできますよ」と。

 そんな時に思うのは、なんでできるのか、と。それは、ご先祖さまが畑を作っておいてくれたおかげなんです。それを誰がやったのか、僕はわからないのですが、何百年間も誰かが耕していたわけですね。そのことによって、良好な畑がある。

 村の道も同じです。今は村道になっていますが、もともと誰かが歩く道を作って、そこをだんだん広げて、ある時に村道となったんです。畑も、道も、ことごとく、みんな誰かが基盤を作ってくれた。

 僕の住む家と畑と、裏山もその時に購入したんですが、購入したときに「困ったな」と思ったのは、元の所有者と大した金額ではありませんが、一応売買して買った。法的にはそれでよいのだけれども、あの村の人たちがみんなで作り上げたものがあるわけですよね。村の人たちがみんなでつくりあげたもの、それをどうしようかなという悩みです。

 例えば、水道もそうですが、僕のところの水道は、誰も信用していないのですが、弘法大師が発見したという、ありがたいお水が山の中腹にありまして……。「弘法大師さん、こんなところまできたのかな」とみんな言いながらも、山の下におろしてきて、水道に流して、各家々に配っています。水は豊富ですから、メーターはありません。

 さらに登記上は「農業用水」になっています。「水道」と登記すると、保健所がうるさいので、せっかくおいしい山の湧水なのに、消毒液をいれないと保健所はOKしない。仕方がなく「農業用水」という登記になっていて、天然水をそのまま使っている、ということなんです。

 それも、村のみんなで作り上げてきたわけです。作り上げてきて、僕が入ってきたときには蛇口をひねれば、水が出る状況になっている。そういうものをどうしようかなと。でも、今さらどうしようもない。田舎は集落ごとに会計をもっているので、「気持ちぐらい、集落会計に寄付しよう」などと、そのへんのことも全部含めて考える必要性を感じた。

 そのことを村の人たちに伝えたら、次の寄合いをやる時に、「内山さんも、ここに来るように」と。簡単に言えば、挨拶をしなくてはいけないといいますか、「ここに来ることになりましたので、よろしく」というだけの話なんですけど。

 その寄合いの時、進行役の人が「実は内山さんから、そういうもろもろについて、どうしようかと相談がありました。どうしたものでしょうか。内山さんは『若干、気持ちぐらいの寄付をしたい。今やるとしたら、そのくらいしかできない』というお話ですが、皆さんどうしましょうか」と寄合いの参加者に訊ねるわけですね。村の人たちは「水道はすでに家にくっついているものだから、心配する必要はない」という話になって、結局、何もせずに終わったんですが……。

 そういうことをやっていると、ご先祖さま、我が家ではないご先祖さまがやっぱり、村の暮らしの基盤を作ってくれていることを感じるんです。

自然との関係が村を作る

 さっきお話した「自然と生者と死者の社会」というのは、もうひとつ深く言うと、自然との関係がこの村を作っているということになります。

 それから、人間同士の関係が、この村を作っている。さらに言えば、「死者という先輩たち」の関係を守りながら、この村を作っている。死者との関係を守りながら、私たちはこの村で暮らしている。

 つまり、村の信仰というのは、みんなそういうものであって、例えば山の神信仰がそうです。山に行けば、どこの村にもあります。だけど山の神信仰は意外と、外国の人に説明しにくい。なぜかというと、『古事記』を読むと、ヤマトタケルの皇子は神話によれば、伊吹山の山の神を退治しに行って、返り討ちにあって、死ぬんです。伊吹山は滋賀県の山ですが、そこはまだ、天皇の支配に入っていなかった山ということになります。

 ヤマトタケルは、山の神を退治しにいった。そこで豪雨にあたって、肺炎になって死んだ。その時代から少なくとも、「山の神」というのは文字として出てくるんです。人によっては、縄文時代からあったのではないかとも言われますが、縄文時代は文献がないので、確定的な証拠はありません。実際には、もう1500年前から「山の神」という言葉が出てきたわけで、昔からありました。そういう伝承があります。

 ところが、山の神と大昔の説話だからというわけではありませんが、山の神に出会った人がいるかというと、少なくともうちの村では何百年間、誰もいません。山の神は森を守っている神様というだけで、それ以上の教義がない。

 伝承によれば、あまり美しくない女性の神様ということになっていて、美人が山に入ると、頭にくるという話です。僕は人によく言うんです。「何人かで山へ入る時には、自己申告でよいから、“私はちょっと山の神様を怒らせそうな風貌がある”と思う人は、丁寧にあいさつしてから入ってください」。(会場大笑)。

 山の神に失礼なことをすると、罰が当たる。そんな話がある。教義のようなものは、ほとんどない。山の神は、森を守っているしかない。しかも、山の神は組織を持ちませんので、「山の神教団」みたいな組織はないわけです。山に入りたくても、手続きする場所もないわけです。

 それなのに、1000年以上も山の神信仰が続いている。あの村で暮らしていくのなら、山の神との関係を大事にしながら生きていくほうがいい、という話になります。山の神が現実に存在していて、山の神を大事にしながら、そんなことをする。そういう関係性こそが、村を作っているわけです。

 水の神もそうです。水の神だって、誰も会っていません。姿も見えません。でも村の人は、水の湧き出るところを守っている。水の神様を大事にしながら、生きている。その関係性こそが、村を作っているという捉え方なので、現実に水の神がいるかどうかは、実はどうでもよろしい。

 村の神様はみんな、そうした関係性で守られてきているんです。現実に神が存在しているかどうかは、どうでもよろしい。日本の伝統的な考え方、ものごとの本質は関係性にこそあります。本質はすべて関係性です。多様な関係性が村を作り、村を守っている。それが伝統的な考え方で、その関係性を大事にしながら、「そういう村の雰囲気が自分は好きだ」となればいい。そうすれば僕のように、村が安心感のある世界になるんです。

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シジミ売りから「伝統回帰」を考える

 今の社会は、行き詰まっています。それは、誰でもそう思っていることで、これからどうしていこうか、という話になっています。今、起きていることはすべて、「伝統回帰」に集約されている。そう言ってかまわないと僕は思います。

 明治以降の日本というのは、伝統を破壊しようとした時代です。そういう「あやしい伝統回帰」もあります。例えば今、日本中が言っている「コミュニティを作ろう」とか、「もう一度結びつきをきちんとしよう」とかです。「協同」とか「協同性」とか、なんのことはない、すべて日本の「伝統回帰」です。昔に戻ることです。

 コミュニティや協同体は、伝統の中に住んでいました。その時代に帰るというだけの話じゃないですか。都市が肥大化していて、混乱もありますが、もう一度自然との関係性を回復したいという思い。これも何のことはない、みんな伝統回帰です。昔の人間たちは、自然との関係で、必要なことを持ちながら生きてきた。今、新しいことというのは、実はどれも伝統回帰なんです。

 大切なのは、「どこの伝統ですか?」ということです。明治時代は「神代の天皇制」というへんな伝統回帰でした。物語への伝統回帰、つまり、神代の天皇制は創作された天皇制ですから、実在した天皇制ではありません。物語の天皇制に戻してしまうという、明治の近代化がありましたが、今またそうした歴史の捏造と破壊が繰り返されようとしているんです。

 そうではなくて、近代化される以前の伝統にもう一度、戻っていく。ただし「伝統回帰」という言葉のもう一つの難しさは、昔に戻るからといって、昔そっくりの形に戻そうとすると、かえって戻れなくなることです。

 例えば、「江戸時代が良かったから、江戸時代に戻りたい」と全員が考えたしましょう。仮にそういうことを誰かが提案し、日本人全員がそれに賛成したところで、「じゃあ来年、江戸時代に戻れますか?」という話です。江戸時代の暮らしは、江戸時代の自然がなければ戻れません。

 親孝行な子どもがいて、朝からしじみを売っている。時代劇によく出てくるシーンです。あれは、江戸のそこら中にシジミがいたからできた話です。江戸には、川がいっぱいあって、川底が真っ黒になるほど、シジミがいたそうです。

 今から50年くらい前、新潟の佐渡島の、あるお宅に泊まったことがあるんです。今は佐渡市になっていますが、当時は両津市でした。両津は、佐渡で一番人口の多い地域ですが、そこのうちに子どもがいて、お母さんが「味噌汁を作るから、シジミを取っといで」と言うんです。その子どもは、ほいっとざるを持ち、シジミをとりに行く。僕も、その後ろについていったんです。

 近くに川が流れていて、そこに下りて行って、川底をザッとざるで一回すくっただけで、山のようにシジミが採れました。川底がシジミで真っ黒で、本当にびっくりしました。そんな環境なわけです。

 ですから、江戸時代のようにシジミ売りの子どもから買わなくても、自分で採りにいけばいい話です。でも、子どもが売っていると、そこで買ってあげる。間接的な助け合いですね。「お母さんが病気で大変だから」と子どもがシジミを売っている。「なんと親孝行な子どもだ」という話です。

 もしみんなが「江戸時代に戻りたい」と考えるのなら、そこらじゅうの川を都会に復活させて、きれいにして、シジミも川底が真っ黒になるくらいに戻さないと、親孝行のシジミ売りの子どもは出てこないということになります。

地域エネルギーで暮らす

 伝統回帰は、形態だけ戻しても、意味はありません。そうではなくて、形を新しくしたうえでの伝統回帰が必要です。僕の村ですと今、結構力を入れていることがあります。それは「地域エネルギーで暮らせるように、暮らしを戻そう」ということです。

 村では山の手入れをやりますので、そうすると木がたくさん出てきます。上野村の森林組合で製材したりしますが、切ったものは全量運び出します。広葉樹も手入れした方がよいので、そういう木も切って、持ってきます。

 実際には今、うちの村では、年間9000㎥くらいの木を切って、運んでいます。良質の広葉樹材では大型家具から戸棚まで、あるいは茶碗からお椀までを作り、針葉樹材は建築用材にする。ところがどちらにも使えない木が5000㎥くらい出る。その木を木質ペレット化して、再生可能エネルギーとして活用しています。今の加熱用ボイラーは、温泉も加熱しますが、ボイラー系は100%ペレットで賄っている感じです。ペレットストーブの普及も進めています。さらにペレット発電もおこなっています。

 ペレット発電はドイツ系の発電機を使っていて、ペレットを蒸し焼きにしてガスを発生させ、そのガスでディーゼルエンジンを動かす。燃して発電するより、こちらの方が熱効率が5割くらいいいんです。それが作れるのは、ドイツのメーカーさんの発電機です。

 こんな感じで、村ではいろいろとやっているので、各地から視察の人たちが来ます。「こんな山奥なのに、いろんな新しいことをやっているんですね」と言われ、「はい、やっています」と答える。でも、僕の気持ちのなかでは「いえいえ。これは新しいことでなくて、伝統回帰なんです。地域エネルギーのある暮らしに戻っているだけです」と言いたい。

 しかも、もう一度、薪を使って暮らす村を作りたい。薪のある暮らしは、贅沢な暮らしになってきて、むしろペレット化するほうが、もっと使いやすい。ペレットストーブにすると、温度を20℃に設定して、夜の12時に切れて、朝6時にまた点くというようなタイマー設定が、石油ストーブ並みにできます。燃焼効率はこっちの方が良いので、これを推奨しています。

 そこの形だけをみると、実は新しいことをどんどんやっている形になりますが、考え方は伝統回帰です。伝統回帰するためには、新しい技術を入れていかないと、逆に伝統に回帰できないんです。

 ただ単純に「昔に戻ろう」とすると、「昔は電気は使ってなかったから、電気なんかいらない」という話になってしまう。これは現代では通用しない話ですし、それは伝統回帰ではありません。「個人的な楽しみで電気を使わない」という人はいるかもしれませんが、そうした生活は今の社会ではなかなか通用しません。

 話を戻すと、村では、そうした発電を進めています。最終的には水力も組み合わせて、地域エネルギー100%の村にしていきたい。ただし、川の権利は国交省にあるので、交渉が今、難航しています。あきらめてはいないので、「いずれやってやるぞ」という感じです。

 水力発電だって、水車の時代に戻るという話です。昔のエネルギーは、薪が9割ぐらいを占めて、1割くらいが水車エネルギーでした。あの時代に戻る。昔の水車は、粉ひきをしていました。今の水車は、それで発電をする。こうした形こそが、伝統回帰となります。

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移動性を持つ定着社会

 「コミュニティのある暮らしに戻る」ということですが、単純に昔のコミュニティの形をそっくりそのまま今、持ってくることは、到底不可能です。

 山深いうちの村でさえ、今の時代に合わせたコミュニティにしなくてはいけません。現代の社会変革のなかで、地域コミュニティを伝統回帰させていくためには、知恵を出さないといけないし、時には斬新な考えを出さないといけません。

 冒頭でお話したように、上野村は、2割くらいの人が「Iターン者」です。あれも実は「伝統回帰」なんです。かつての村は先祖伝来でした。というのは、いつから村に入ってきたのかという話で、平安時代から江戸時代の中ごろにかけて、農村の定着社会が生まれます。

 それは、永遠にそこから離れないわけでなく、移動性を持つ定着社会です。ましてや次男、三男は、移動性のなかに入っているし、それからお嫁さんも移動性の人がでてきます。なかには「隣から」というお嫁さんもいますが、昔でも村外から来ているお嫁さんは結構、たくさんいます。

 そうした関係を内蔵させて、移動性を持ちながら、村は営み続けてきました。ところが、昭和30年代の高度成長時代あたりから、村から人が出ていくばかりの移動性が増え、入ってくる人の移動が減ったんです。村から出ていく人と、村に入ってくる人で、村は成り立っていた。こうした相互交通をもう一度、回復させる。これが伝統社会の考え方なんです。

 昔は村にも、行商の人が来ていたんですが、今はなかなか来れません。そこで村が音頭をとって、積極的に「都会の皆さん、東京の皆さん、よかったらうちの村に住みませんか」と呼びかけながら、移動性を持っていた昔の時代に戻っています。それは決して、村づくりが苦しくなったからやるわけでなく、もともと昔からあった移動性の社会なんです。

 僕はいろいろな町、田舎に行っていますが、最近はどこに行っても新しい人が暮らしています。よく考えたら、色平先生も、佐久の人間でもなんでもないわけです。新しい人として、佐久に入って、お医者さんをされている。「元祖Iターン」みたいなものです。

地方にこそフロンティアあり

 これまでの社会は、大手企業に入れば、とりあえず生涯大丈夫ということがありました。そうした考え方が近年、急速に壊れてきて、勤めに出るということが、だんだんメリットのない社会になってきました。いろんなところに行って、住んでいる人たちと話をしていて、そう感じます。

 今の時代は、いろいろなものが信任されない社会といえます。アメリカの時期大統領にトランプさんがなるそうですが、あれも、アメリカという国家が、国民に信任されない時代になってきたあらわれといえます。しかもその現象は、世界的に起きています。イギリスは、国民から信任されているでしょうか? それも、危なくなってきている。スコットランドの独立とか出ていますからね。

 さらに言えば、沖縄の人たちは、日本を信任しているのでしょうか? あきらかに沖縄は、独立するほうがいいようにさえ思えます。安倍政権がいいとか、悪いとか言う前に、日本という国自体が、なんだか国民からあまり信任されていないと言いますか、そんな感情を受けます。

 われわれは日本国民として、国を信任する気持ちを無くしてしまっているのではないか……。でも現実には、われわれのところに税務署はやってくるし、税金も納めている。世界中でいろいろな「信任されない」ことが起きています。それは国家だけではなく、企業に勤めるということも、だんだん信任されなくなっている。そんな時代になってきているわけです。 

 だからこそ、「関係性を築きやすい時代」とも言えます。自分たちで関係を築きながら、自分たちで生きる世界をつくるために、地方に来ている。今は、そういう時期にきています。地方の方が、フロンティアになりつつある。何かやろうとしたら、地方の方がやりやすい。

 例えば、東京で地方と同じようなことをしようとしたら、使っている場所を確保するだけでも、いったいいくら払わないといけないのか。家賃が高いですよね。人によっては、「子育ては自然の豊かな土地のほうがいい」と考える人もいます。そうすると、田舎の方がフロンティアになります。

 かつては、「地方から東京へ」がフロンティアでした。だからこそ、ぞくぞくと地方から東京へ、人が出ていきました。現代は、それが逆転してきたのように感じるんです。

 さきほどの講演で、色平さんがおっしゃいましたよね。「佐久総合病院」ではなく「酒騒動病院」だと。年寄りたちが酒を飲みながら、グチを言いながら、そこに医者が存在する。東京でこれをやろうとしたら、絶望的な感じになってしまうので、それはできません。佐久のような田舎だからこそできる、地域医療です。だからそこにもフロンティアがあって、佐久総合病院はそのフロンティア性みたいなことを、古い段階からやってきた病院と言えます。

 いろいろなものが変わってきている時代です。これからの時代、何に安心感があるのか。何が安心感のある関係なのか。関係性こそが、われわれの世界を作っている。そういう点でも、伝統回帰に向かっている。伝承的には新しいものを作っている時代ではないか。そのように僕は、考えるわけです。

 今日は、色平さんが自分の持ち時間を減らして、僕に時間をくれたので、ゆっくりお話することができました。ありがとうございました。

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■本シンポジウム「“協働のチカラ、つながる力”」の模様は、セカンドリーグWebサイトおよび『のんびる』2017年2月号でご紹介しています。

■色平哲郎氏講演「いのちの現場から考える」は動画サイト「パルシステム公式YouTubeチャンネル」で公開しています。

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